人は、語り得ぬものについては。

人は、語り得ぬものについては、沈黙しなくてはならない。

ウィトゲンシュタイン


こうも言ってます。

哲学的な事柄について書かれた大抵の命題や問いは、偽なのではなく、無意味なのである。それゆえ我々は、その種の問いについては、そもそも答える事が出来ず、ただそれが無意味であることを突き止める事ができるのみ、なのである。

ウィトゲンシュタイン


そして、スタートに立ち戻る。

哲学者の大抵の問いや命題は、我々が我々の言語の論理を理解していないという事に、基づいている

ウィトゲンシュタイン


真我の探求をしばらくしてると、
これは言葉の定義について
再構築する作業かと感じられました。

それで、図書館で出くわした本。

ウィトゲンシュタインの独我論でした。


真我は、唯存在する。

と規定されているから。

真我という対象は、広義で形而上学的唯我論の分野。


言語で広く認識され得ないもの。

ウィトゲンシュタインが言う所の言語で規定できないものは

無意味であると。

真我には、分が悪い。

時代がもう違うんだね。

真我はこの時代では死人同然だ。


悪あがきですが。
私は誰か?
という行法は想念を沈める作用はある。

と思う。

ので、心のエクササイズとしては有効。

では無いか。

そんな方向で歩んでゆきたい。

真我が有るか無いかは、どうでもよいです。

非2元のメモ書き

nonduality(非2元)について、じっくりゆったりとついてゆくための覚書です。 私は、べつに悟ってません。

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